東日本大震災以降,原子力損害賠償法に興味あり,同法と東京電力の責任についても検討してみたい。

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・法規制関係資料 その3 伊方最高裁判決

・法規制関係資料 その3 伊方最高裁判決


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昭和60(行ツ)133 伊方発電所原子炉設置許可処分取消  
平成4年10月29日 最高裁判所第一小法廷 判決 棄却 高松高等裁判所

主    文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。

理    由
 上告代理人新谷勇人、同井門忠士、同石川寛俊、同井上英昭、同浦功、同岡田義雄、同奥津亘、同菊池逸雄、同熊野勝之、同崎間昌一郎、同佐々木斉、同里見和夫、同柴田信夫、同菅充行、同田原睦夫、同田中泰雄、同仲田隆明、同中元視暉輔、同畑村悦雄、同平松耕吉、同藤原周、同藤原充子、同分銅一臣、同本田陸士、同三野秀富、同水島昇、同藤田一良の上告理由のはじめに、第一章、第二章及び第五章の第一について所論の点に関する原審の認定判断及び措置は、原判決挙示の証拠関係及び記録に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。
 所論は、憲法三一条は、電力会社等が設置する原子力発電所の設置規制手続を定める法律には、(1) 原子炉設置予定地の周辺住民の設置規制手続への参加、(2) 設置の申請書、付属書類及び審査資料すべての公開、(3) 設置基準(安全基準)の明白かつ定量化の三点を定めることを要求していると解すべきところ、これらの点についての定めを欠く原子力基本法(昭和五三年法律第八六号による改正前のもの。以下「基本法」という。)、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律(昭和五二年法律第八〇号による改正前のもの。以下「規制法」という。)の設置規制手続に関する規定は、憲法三一条に違反するものであり、また、上告人らに告知、聴聞の機会を与えずにした本件原子炉設置許可処分は同条に違反する、と主張する。
 行政手続は、憲法三一条による保障が及ぶと解すべき場合であっても、刑事手続とその性質においておのずから差異があり、また、行政目的に応じて多種多様であるから、常に必ず行政処分の相手方等に事前の告知、弁解、防御の機会を与えるなどの一定の手続を設けることを必要とするものではないと解するのが相当である。
 そして、原子炉設置許可の申請が規制法二四条一項各号所定の基準に適合するかどうかの審査は、原子力の開発及び利用の計画との適合性や原子炉施設の安全性に関する極めて高度な専門技術的判断を伴うものであり、同条二項は、右許可をする場合に、各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の意見を聴き、これを尊重してしなければならないと定めている。このことにかんがみると、所論のように、基本法及び規制法が、原子炉設置予定地の周辺住民を原子炉設置許可手続に参加させる手続及び設置の申請書等の公開に関する定めを置いていないからといって、その一事をもって、右各法が憲法三一条の法意に反するものとはいえず、周辺住民である上告人らが、本件原子炉設置許可処分に際し、告知、聴聞の機会を与えられなかったことが、同条の法意に反するものともいえない。以上のことは、最高裁昭和六一年(行ツ)第一一号平成四年七月一日大法廷判決(民集四六巻五号四三七頁)の趣旨に徴して明らかである。
 また、規制法二四条一項四号は、原子炉設置許可の基準として、原子炉施設の位置、構造及び設備が核燃料物質(使用済燃料を含む。)、核燃料物質によって汚染された物(原子核分裂生成物を含む。)又は原子炉による災害の防止上支障がないものであることと規定しているが、それは、原子炉施設の安全性に関する審査が、後述のとおり、多方面にわたる極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づいてされる必要がある上、科学技術は不断に進歩、発展しているのであるから、原子炉施設の安全性に関する基準を具体的かつ詳細に法律で定めることは困難であるのみならず、最新の科学技術水準への即応性の観点からみて適当ではないとの見解に基づくものと考えられ、右見解は十分首肯し得るところである。しかも、設置許可に当たっては、申請に係る原子炉施設の位置、構造及び設備の安全性に関する審査の適正を確保するため、各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の科学的、専門技術的知見に基づく意見を聴き、これを尊重するという、慎重な手続が定められていることを考慮すると、右規定が不合理、不明確であるとの非難は当たらないというべきである。したがって、右規定が不合理、不明確であることを前提とする所論憲法三一条違反の主張は、その前提を欠く。論旨は、採用することができない。
 次に、所論は、本件原子炉設置許可処分は、法律又はその委任に基づいて定められたものではない原子炉施設の安全性に関する基準を用いた安全審査に依拠してされたものであるから、憲法四一条、七三条一号、国家行政組織法一二条、一三条に違反するともいうが、本件原子炉施設の安全審査は、その合理性を十分首肯し得る規制法二四条一項四号の規定に基づいてされたものであるから、それが法律の規定に基づかないものであることを前提とする所論は、その前提を欠くものというべきである。論旨は、採用することができない。所論のその余の違憲主張は、原審の認定しない事実を前提とするものにすぎない。
 また、所論引用の各判例は、いずれも事案を異にし、本件に適切でない。論旨は、いずれも採用することができない。
 同第三章について
 原子炉を設置しようとする者は、内閣総理大臣の許可を受けなければならないものとされており(規制法二三条一項)、内閣総理大臣は、原子炉設置の許可申請が、同法二四条一項各号に適合していると認めるときでなければ許可してはならず(同
条一項)、右許可をする場合においては、右各号に規定する基準の適用については、あらかじめ核燃料物質及び原子炉に関する規制に関すること等を所掌事務とする原子力委員会の意見を聴き、これを尊重してしなければならないものとされており(同条二項。なお、昭和五三年法律第八六号による改正により、実用発電用原子炉の設置の許可は被上告人の権限とされ、同法附則三条により、右改正前の規制法の規定に基づき内閣総理大臣がした右原子炉の設置の許可は、被上告人がしたものとみなされることとなった。)、原子力委員会には、学識経験者及び関係行政機関の職員で組織される原子炉安全専門審査会が置かれ、原子炉の安全性に関する事項の調査審議に当たるものとされている(原子力委員会設置法(昭和五三年法律第八六号による改正前のもの)一四条の二、三)。
 また、規制法二四条一項三号は、原子炉を設置しようとする者が原子炉を設置するために必要な技術的能力及びその運転を適確に遂行するに足りる技術的能力を有するか否かにつき、同項四号は、当該申請に係る原子炉施設の位置、構造及び設備が核燃料物質(使用済燃料を含む。)、核燃料物質によって汚染された物(原子核分裂生成物を含む。)又は原子炉による災害の防止上支障がないものであるか否かにつき、審査を行うべきものと定めている。原子炉設置許可の基準として、右のように定められた趣旨は、原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料として使用する装置であり、その稼働により、内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがあることにかんがみ、右災害が万が一にも起こらないようにするため、原子炉設置許可の段階で、原子炉を設置しようとする者の右技術的能力並びに申請に係る原子炉施設の位置、構造及び設備の安全性につき、科学的、専門技術的見地から、十分な審査を行わせることにあるものと解される。
 右の技術的能力を含めた原子炉施設の安全性に関する審査は、当該原子炉施設そのものの工学的安全性、平常運転時における従業員、周辺住民及び周辺環境への放射線の影響、事故時における周辺地域への影響等を、原子炉設置予定地の地形、地質、気象等の自然的条件、人口分布等の社会的条件及び当該原子炉設置者の右技術的能力との関連において、多角的、総合的見地から検討するものであり、しかも、右審査の対象には、将来の予測に係る事項も含まれているのであって、右審査においては、原子力工学はもとより、多方面にわたる極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づく総合的判断が必要とされるものであることが明らかである。そして、規制法二四条二項が、内閣総理大臣は、原子炉設置の許可をする場合においては、同条一項三号(技術的能力に係る部分に限る。)及び四号所定の基準の適用について、あらかじめ原子力委員会の意見を聴き、これを尊重してしなければならないと定めているのは、右のような原子炉施設の安全性に関する審査の特質を考慮し、右各号所定の基準の適合性については、各専門分野の学識経験者等を擁する原子力委員会の科学的、専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的な判断にゆだねる趣旨と解するのが相当である。
 以上の点を考慮すると、右の原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。
 原子炉設置許可処分についての右取消訴訟においては、右処分が前記のような性質を有することにかんがみると、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告が負うべきものと解されるが、当該原子炉施設の安全審査に関する資料をすべて被告行政庁の側が保持していることなどの点を考慮すると、被告行政庁の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認されるものというべきである。

 以上と同旨の見地に立って、本件原子炉設置許可処分の適否を判断した原判決は正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をもいうが、その実質は、単なる法令違背をいうものにすぎず、原判決に法令違背のないことは右に述べたとおりである。論旨は、いずれも採用することができない。
 同第四章について
 規制法は、その規制の対象を、製錬事業(第二章)、加工事業(第三章)、原子炉の設置、運転等(第四章)、再処理事業(第五章)、核燃料物質等の使用等(第六章)、国際規制物資の使用(第六章の二)に分け、それぞれにつき内閣総理大臣の指定、許可、認可等を受けるべきものとしているのであるから、第四章所定の原子炉の設置、運転等に対する規制は、専ら原子炉設置の許可等の同章所定の事項をその対象とするものであって、他の各章において規制することとされている事項までをその対象とするものでないことは明らかである。
 また、規制法第四章の原子炉の設置、運転等に関する規制の内容をみると、原子炉の設置の許可、変更の許可(二三条ないし二六条の二)のほかに、設計及び工事方法の認可(二七条)、使用前検査(二八条)、保安規定の認可(三七条)、定期検査(二九条)、原子炉の解体の届出(三八条)等の各規制が定められており、これらの規制が段階的に行われることとされている(なお、本件原子炉のような発電用原子炉施設について、規制法七三条は二七条ないし二九条の適用を除外するものとしているが、これは、電気事業法(昭和五八年法律第八三号による改正前のもの)四一条、四三条及び四七条により、その工事計画の認可、使用前検査及び定期検査を受けなければならないこととされているからである。)。したがって、原子炉の設置の許可の段階においては、専ら当該原子炉の基本設計のみが規制の対象となるのであって、後続の設計及び工事方法の認可(二七条)の段階で規制の対象とされる当該原子炉の具体的な詳細設計及び工事の方法は規制の対象とはならないものと解すべきである
 右にみた規制法の規制の構造に照らすと、原子炉設置の許可の段階の安全審査においては、当該原子炉施設の安全性にかかわる事項のすべてをその対象とするものではなく、その基本設計の安全性にかかわる事項のみをその対象とするものと解するのが相当である。もとより、原子炉設置の許可は、原子炉の設置、運転に関する一連の規制の最初に行われる重要な行政処分であり、原子炉設置許可の段階で当該原子炉の基本設計における安全性が確認されることは、後続の各規制の当然の前提となるものであるから、原子炉設置許可の段階における安全審査の対象の範囲を右のように解したからといって、右安全審査の意義、重要性を何ら減ずるものではない。右と同旨の見解に立って、固体廃棄物の最終処分の方法、使用済燃料の再処理及び輸送の方法並びに温排水の熱による影響等にかかわる事項を、原子炉設置許可の段階の安全審査の対象にはならないものとした原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、いずれも採用することができない。
 同第五章の第二について
 原審の適法に確定した事実関係の下において、原子力委員会に置かれた原子炉安全専門審査会及び専門部会における原子炉施設の安全性に関する調査審議の手続に、内閣総理大臣が原子炉の設置の許可をする場合には、原子力委員会の意見を聴き、これを尊重してしなければならないとした規制法二四条二項の規定の趣旨に反すると認められるような瑕疵があるとはいえず、右手続が違法でないとした原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、いずれも採用することができない。
 同第五章の第三について
 原審の適法に確定した事実関係の下において、所論のスリーマイルアイランド原子力発電所二号炉の事故及びその原因が、本件原子炉施設について行われた安全審査の合理性に影響を及ぼすものではないとした原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
 同第五章の第四について
 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、首肯するに足り、右事実及び原審が適法に確定したその余の事実関係の下において、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会が本件原子炉施設の安全性について行った調査審議及び判断に不合理な点があるとはいえず、これを基にしてされた本件原子炉設置許可処分を適法であるとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をもいうが、その実質は、単なる法令違背をいうものにすぎない。論旨は、いずれも採用することができない。
 よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

最高裁判所第一小法廷
裁判長裁判官    小   野   幹   雄
   裁判官    大   堀   誠   一
   裁判官    橋   元   四 郎 平
   裁判官    味   村       治
   裁判官    三   好       達


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・法規制関係資料 その2

・法規制関係資料 その2

http://www.nsc.go.jp/anzen/shidai/genan2010/genan050/siryo4-2.pdf
第50回原子力安全委員会資料第4-2号
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原子力安全規制~日本における段階規制の特色~
平成22年8月5日
山内 喜明

○ はじめに
① 施設の建設段階・運転段階と、原子力施設が操業に向けて変化していく段階に合わせて規制をしていくのは各国とも共通。
② 日本における特色は、以下のとおり。
→最初の許可段階(原子炉設置許可等)においてのみ、総合的な安全評価がなされること。
→最初の許可が、後段規制の大枠を拘束する運用がなされていること。
すなわち、米国のように、施設の建設許可と、施設の運転認可とが独立し、運転後は、後者の運転認可で規制が行われる、いわば、二本立ての許認可体制になっていないこと。
→バックフィット制度が整備されていないこと。
③ 以上の特色を前提に、先ずは、日頃思うことを述べ、次に最近の状況についての所見を述べ、最後に法改正について考えることを述べていきたい。

Ⅰ 日本における段階規制の特色
1.後段規制で総合的な安全評価(安全解析)がなされないこと
① 設置許可段階では、原子力施設の基本設計について安全審査し、その際に、総合的な安全評価が行われる。
② 後段規制は、この設置許可の大枠の中で、
→設計面では、詳細設計について工事計画認可や設計・工事方法認可がなさ
れる。
→運転面では、保安規定の認可がなされる。
③ したがって、当初の設置許可の枠内で後段規制が行われるので、個々の後段規制において総合的な安全評価は不要であると考えられる。
④ これは、一つの考え方(法令の運用)である。
原子力施設の立地にあたっては、当該立地を適正とする基本的な許認可が必要だと思うので、当初の許可段階で総合的な安全評価が行われることが望ましいと思う。
⑤ しかし、最初の段階である、基本設計段階では、施設・設備については概念的な状態である。したがって、その際の安全評価は、余裕を十分に取り、必ずしも現実を反映したモノではない、保守的になされたモノであると考えられる。その後、工事計画認可等によって詳細設計が審査され、具体的な設備が設置され、施設として具現化される。その段階で、再度、総合的な安全評価を実施した方が、具体的な施設に適合した、現実的な安全評価となるのではないか。(設計建設規格と維持規格のアナロジー)
⑥ 米国の運転認可は、正に施設が具現化した際に、現実の施設に適合した運転規制を行うことを目的にしたものではないかと考える。
日本においては、例えば、使用前検査の最終合格の前に、総合的な安全評価を実施し、それに基づき、使用前検査に合格証を発給すると共に、運転のための保安規定の認可を行うとすることが、施設の現実に適合した、より高い安全性が期待できるのではないかと思われる。

2.設置許可による後段規制への拘束。
① 当初の許可が、後段規制を拘束する点については、2点述べたい。
② 一つは、単一故障の仮定の考え方の適用である。
・ 設置許可における安全審査においては、単一故障の考え方に基づき安全評価がなされるが、これは、前述のように、設置許可(基本設計)段階では、設備については概念的な状態であるから採用された信頼性確保の方法論だと考えられる。
・ 最初の許可段階(設置許可等)から後続規制が積み重なることで、原子力施設は、より具体的になり、それに伴い安全性も確かなものになっていく。
・ 最初は、安全性を確保するために保守的に評価することは必要だが、具体的な施設が完成し、安全余裕が具体的に把握できた段階、いわば運転段階においては、単一故障の考え方も変わってもいいのではないかと思われる。
・ 原子力施設が運転段階に至れば、単一故障の目指した信頼性確保やリスク抑制等は、具体的な設備に基づいた,他の規制手段(例えばAOTの設定等)で確保することができるのではないか。
・ すなわち、具体的な運転段階においては、設置許可段階の単一故障の考え方を柔軟に応用することを検討すべきであると考える。
・ 例えば、適切な運転管理・保守管理により二系統が同時にダウンする可能性は低い等が示されれば、一系統については、運転中保全(オンラインメンテナンス:OLM)を認めても不都合はないのではないか。研究炉はともかく、実用炉では、こうしたリスクが把握できるほど、データの蓄積や定量化が進んでいると考える。
③ もう一つは、設置許可と後続の工事計画認可等における各々の書類の継続性である。
・ 設置許可段階では、設備の目的が安全確保の観点から妥当かどうかの観点で安全審査がなされ、その際の参考資料として、設置許可申請書本文を説明する資料として、その添付書類がある。
・ 一方、後続の工事計画認可等における書類は、それ自体が、設備の設計に対する規制の根本となるものである。
・ このように、両者の書類の目的が異なるので、同一の施設に関する、設置許可申請書の添付書類の記載と、後続の工事計画認可等における書類の記載が異なっていても問題はないと考える。
・ 何故なら、前者は、申請書本文にある目的の説明であり、規制そのものの対象ではなく、後者は、規制対象そのものであるからである。
・ しかしながら、何時までも記載が異なっているのは、説明性の観点では、問題が生じる可能性がある。
・ 西脇先生提案のように、設置許可申請書の添付書類の改定手続きを整備し、工事計画認可等・保安規定の主要部分のエッセンスの最新状況を添付書類に追加記載することで、設置許可と後続規制である工事計画認可等との継続性を明確にする方が原子力安全の説明性の観点からみて望ましいものと考える。

3.バックフィット制度
① 伊方原子力発電所1号機の設置許可取消をめぐる事案について、最高裁は、
判決において
『現在の科学技術水準』に照らし,
イ)調査審議で用いられた「具体的審査基準」に不合理な点があり,
【具体的審査基準の不合理な点の有無】
あるいは
ロ)当該原子炉施設が具体的審査基準に適合するとした原子力委員会、若しくは原子炉安全専門審査会の『調査審議及び判断の過程』に『看過し難い過誤,欠落』があり,被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合
被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして,
右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。
とした。
② この判決を文字通りに考えれば、日本においても、事業者はバックフィット制度を甘受すべきと考える。すなわち、最新の知見にそって、当初の許認可の適正さを検証するということはバックフィット制度の根幹であるからである。
③ ただ、一方で、事業者にしてみれば、設置許可等の許可を取得していることの既存の権利の保障を主張したいのではないかと考える。この調整が制度導入の際の大きな課題である。
④ 法改正して、バックフィット制度を構築する方法もあると思うが、法改正をしなくても、バックフィット制度を導入できるものと考える。
⑤ すなわち、炉規制法62条の2は、許可等において条件を付すことを認めている。これを活用し、設置許可等の当初許可を発給する段階において、その許可条件として、将来にわたって、許可対象の施設が最新の知見に適合することを義務づければ、事実上のバックフィット制度が導入できるものと考える。
⑥ 但し、最新知見に基づいた施設改造の要求については、代替手段等を事業者に認めるべきである。
例えば、新基準に従えば、設備改造が必要になる場合、
事業者は、原則設備改造の義務を負うが、
⇒運転管理手法で同等の安全性を保障できる場合には、
そのような手法を採用することで、新基準に適合したものと
みなすことができるようにする。
⇒既存施設を改造しなくても、PSA等で安全評価して、
同等の安全性の確保が証明できる場合には、
その安全評価をもって、新基準に適合した施設とみなすものとする。
等の事業者に選択の余地を認める制度にすべきと考える。
⑦ なお,設備要求を課すことは,性能規定化の国の規制の方向性と逆行するものであり,上記の運用上の混乱を避ける観点から,規制要求は可能な限り性能要求であるべきものと考えられる。

Ⅱ 最近の課題から
1.検査:米国との相違
① 日本の検査は、米国のインスペクションとは異なるのではないか。
日本の検査は行政処分の一形態である。したがって、日本では常時検査はあり得ない。何故なら、常時検査は常に行政処分がなされている状態であるからである。
② 米国のように、常時チェックするインスペクション制度を日本に導入しようとすると、先ずは、検査官が、事業者の如何なる場所、如何なる書類にでもアクセスできる、フリーアクセスを認めてもらうことが必要である。
これには、検査当局が事業者との協定で認めてもらう方法か、
または、炉規制法の中に、立入権限を含む「保安調査」のような、フリーアクセスを認める根拠規定を設ける方法か、
いずれかの手当が必要である。
③ 次に、上記フリーアクセスの結果、規制当局(検査官)が強制措置が必要であると判断した場合には、強制権限を有する保安検査へ切り替える措置が必要である。これには、現行の炉規制法の改正が必要である。

2.シビアアクシデント(SA)
① 設計基準事象(DBE)を超える事故を想定し、原子力施設の安全性をより確実なものにすることは、方向性とは正しいと思われる。問題は、そうした活動を規制として取り扱う場合,全体の規制体系の下で、どのように位置づけるかである。
② 現行の規制では、設置許可(基本設計)段階では、平常時における被曝低減対策、事故防止対策が適切なモノであることをチェックし、事故防止対策の元である設計基準事象(DBE)により安全設計の妥当性を確認している。DBEを超える事故については、立地評価として、適切な立地を確保することで安全を確保するものとされており,設計の妥当性と関連付けられてはいない。
③ すなわち、現行規制の中でも、設計基準事象(DBE)を超える事故への対応はなされているのである。となると、シビアアクシデントを、この立地評価の中で、どのように位置づけるかが問題であると考える。
④ 自分としては、シビアアクシデント規模の事故は、立地評価の中の仮想事故の中に包含されていると思うので、設置許可段階の規制としてシビアアクシデントに関する規制を導入することは過剰な規制ではないかと思う。つまり、シビアアクシデントに関する規制は、設置許可とは別枠の規制であるべきではないかと思う。
⑤ 現在、シビアアクシデント対策類似のモノとして、日本では、運転管理段階でアクシデントマネージメント(AM)対策を実施しているが、それは、このように、設置許可段階ではシビアアクシデントを立地の観点からではあるものの,規制していると考えているからである。
⑥ 運転管理段階におけるAM対策では、適切な施設であるか否かのチェックがなされないとの批判がある。しかし、シビアアクシデント対策自体、設備規制になじまないモノが多いのではないか。
⑦ 仮に、AM対策特有の設備対応が必要な部分があるならば、それに対する設備規制を別途設けるのがDBE対応とシビアアクシデント対応の位置づけを明確にした規制体系になると考える。
⑧ 既存の制度を活用するならば、AM対策に必要な設備について、基準を設けた上で、工事計画認可等で、具体的な設備の詳細設計について申請させ、当該申請を基礎に規制を課すことも規制の方法論としては成り立つと思う。
⑨ 設置許可における施設関係の規制は、工事計画認可等で具体的な設備として規制されていくのは前述のとおりであるが、工事計画認可等の規制対象を、設置許可から流れるモノに限定する必要はない。
⑩ 運転管理段階で、AM対策を実施することを前提に、工事計画認可等の段階で、AM対策に必要な設備にとして規制することがあっても問題はないモノと考えられる。

Ⅲ 今後の炉規制法のあり方について
○ 今後の炉規制法改正の方向性だが、手続き重視の英米法系(NRC流)で行くのか、実体安全を重視する大陸法系(IAEA流)で行くのか、それを決めることが重要であると考える。
○ 次に、実用炉(軽水炉)だけの安全規制法を作るべきかと思う。現行の炉規制法は、廃棄物処分も、サイクル施設も、研究炉も、実用炉も、一律に規制している。しかし、各々、状況が異なるし、特に、実用炉では標準化も進んでいるので、別に規制すべきかと思う。
○ また、これだけ、標準化が進んでいる軽水炉については、トピカルレポート制度を活用し、現時点でも、(実質的な)型式認証制度を導入することは可能かと思われる。
その際、設置許可等の申請手続きを行うことは必要だが、安全審査においては、従前、既にチェックしてある(炉型)と、申請された原子炉とが同一ならば、安全審査を簡略する等の手法は採用できるはずと思う。
以 上


【注】高橋利文最高裁調査官は,「最高裁判所判例解説民事篇平成4年度」において,以下のとおり述べている。
a.本判決が,安全審査・判断の過程に「看過し難い過誤,欠落」がある場合に限って,原子炉設置許可処分が違法となると判示しているのは,安全審査・判断の過程に過誤,欠落があったとしても,それが軽微なものであって重大なものでない場合には,多角的・総合的な判断である被告行政庁の判断が不合理なものとなるものではないという趣旨であろう。
b.本判決は,「現在の科学技術水準に照らし」としているが,どの時点の科学技術水準により判断すべきかは,科学的経験則の問題であり,従来の科学的知識の誤りが指摘され,従来の科学的知識に誤りのあることが現在の学界の通説的見解となったような場合には,現在の通説的見解(これが当該訴訟において用いられるべき経験則である。)により判断すべきであろう。
c.処分当時の科学的知識によれば,当該基本設計が講じている事故防止対策で十分安全であると判断される場合であっても,現在の通説的な科学的知識によれば,当該事故防止対策は不十分であり,その基本設計どおりの原子炉を設置し,将来,これを稼働させた場合には,重大な事故が起こる可能性が高いと認定判断されるときには,当該原子炉の安全性を肯定した設置許可処分は違法であるとして,これを取り消すべきであろう。


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・法規制関係資料 その1

・法規制関係資料 その1

第1回原子力法工学ワークショップ報告書
「原子力と法規制の諸問題」
http://www.n.t.u-tokyo.ac.jp/~socio/PolicyMaking/openarchives/WS070110/WS070110all.pdf

1.3 開催日時・場所等
日時:2007 年1 月10 日(水) 13:00~17:00
場所:東京大学 武田先端知ビルホール
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2.2 講演1「原子力法制のうつりかわり」
下山俊次 氏(日本原子力発電株式会社 参与)
(木村) それでは最初に、「原子力法制のうつりかわり」という演題で、下山俊次先生からご講演をいただきたいと思います。下山先生、よろしくお願いします。
(下山) 今、班目先生のお話を聞いて、初めて原子力法工学がどういうものかということをおぼろげながら分かった感じがいたしますが、果たして皆様のご希望に添えるようなお話ができるかどうか自信はありません。きちんとした原子力法の課題というのは、すぐ後に城山先生からお話があると思うので、そのほうはお任せするとして、私がここに呼び出された理由というのは、おそらく半世紀の間原子力とつきあってきて、いまだにこの辺りにうろうろしているという人間に、何とか本音をしゃべらせようということでお招きいただいたのだろうと思います。
 最初に田邉君からご依頼があったときに、まとまった話は準備日時の関係もあり難しいのでお断りしたら、それでも何とかということなので、横町のご隠居のよもやま話ぐらいならできると言ったらそれでいいと言うことで、本日伺った次第です。しがって表題は硬いが気軽にお聞きいただければありがたいと思います。
 話の中身について何をやれということはなにも伺っていないのですが、私なりに勝手にそこにレジュメだけを書いておきました。私は1955 年に基本法が成立したときから今まで約半世紀にわたって原子力とつきあってきたわけですが、原子力の現場にいて、会社の経営に携わりながら他方で政府のいろいろな審議会や諮問委員会などの仕事を通じて、原子力法制のこともずっと見て来ました。
 しかし法制度だけを専門にみていたわけではないので、その間落ち着いて原子力法の問題をじっくり考える時間も無く、したがって今まとまったお話をする自信はありません。その代わりといってはおかしいのですが、ここにこういう本があるのをご紹介しておきます。筑摩書房の『現代法学全集』第57巻。今から30 年前に私が書いたものですが、自画自賛させていただくと、いまだにこの内容が生きている。ということは、実は、最初に講演の題名を「原子力法制のうつりかわり」としたのですが、これは間違えで、「原子力法制のうつりかわらず」とするのが正しい状態でして、したがって30年まえの原子力法に対する問題意識はそのまま現在でも通用するということを先ず申し上げておきたい、ということです。その頃はちょうど原子力開発が始まって20 年ぐらい経った時ですが、実はその間に、現在わが国で騒がれている諸問題はアメリカでは先行してほとんど全部といっていいほど顕在化しています。特にアメリカでは、原子力開発活動の進展がそのまま法律の動きあるいは変化に反映してくる。ですから、法律の 変遷を見てみると、原子力問題の移り変わりそのものが分かります。しかし、日本では法律は出来たら最後全然変わらない。したがって法律の動きだけ見ても、原子力問題の動きは分からないということになるわけです。
 したがいまして、その頃は法の問題として原子力を考えるという発想が一般には全くなかったので、今原子力法の話をするというだけでこれだけ数の皆さんが集まってくださるというのは、全く隔世の感がある。それだけ、特にこの10 年ぐらいの間に、急激にいろいろな原子力法制に関していろいろな問題が生じてきているということだと思います。
 最近の出来事ではなんといっても“もんじゅ訴訟”です。それからJCOの事故です。そのあとからもいろいろな問題があり、例えばシュラウドに関連する運転維持基準の問題など安全保安に関する法規制が出てきますが、それは長い間潜行していた問題が一気に吹き上がってきた感があります。もんじゅ訴訟に内在する法の問題は、この本に書いてありますが、50年前にアメリカで起こったエンリコ・フェルミ原子炉の建設認可をめぐる裁判の経緯と殆ど内容が同じなのです。これは原告がAFL-CIO,被告がAEC で認可の有効性を争った裁判ですが、一審は被告勝訴、二審は原告、そして最高裁で被告が勝訴となったケースです。その裁判の過程で、今わが国でも問題になっている、最初の入口での行政処分である設置許可の意味はなにか、運転に至るまでのそれぞれの段階の許認可プロセスはどうゆう意義を持っているのかさらに根本的な問題としては技術開発と法の関係はどうあるべきか、ということが問題になっています。
 またアメリカにおいてプライス・アンダーソン法(Price-Anderson Act)という原子力損害賠償法が1957年にできたのですが、その法律の成立と運用の歴史を見てみると、 先般わが国で起こったJCO事故の時の損害賠償請求に関連する法律上の問題も全部そこで議論されています。
 あるいはカルバート・クリフス原発の許認可を巡る裁判の判決。ここでは環境と原子力の関係だけではなくて、原子力技術に関する許認可を実体法の内容だけで規制すれば事足りるのか、それよりも大事な事は手続きではないか、という問題が問われています。
 私が三十年前に恩師である金沢良雄先生や加藤一郎先生に法学全集に原子力法を書けと言われたときに、いろいろ無い知恵をしぼって考えたことは何だったかというと、原子力法の問題をつきつめていくと結局のところ科学技術と法の問題の本質は何かに始まって、最後は大げさにいうと“法”とは何なのだろうかというところまで遡って考えざるをえなかったのということです。したがって今日はこれから皆さんが原子力法の問題を考えられていく上での基本的なお話が、あとの城山先生のお話やパネルディスカッションの前座として出来ればと思っている次第です。
 したがいまして、今日は法学系の方もおられるとは思いますが、恐らく工学系のかたがほとんどだろうということで話を進めさせていただこうと思います。そんなことはいまさら言ってくれなくても解っているという方もおられるかと思いますが、法の問題を取り扱う際にその前提として考えておくべきことについて少々時間をいただきたい。実はそこのところを理解されていないために、一つ何か原子力の法律にかんする事件が起こりますと、はちの巣をつついたように無用な議論や見当違いの批判が起こります。行政や司法への批判、あるいは事業者への批判も結構ですが、法律問題を取り扱う原点として考えておくべきことについて、ちょっとお話しをさせていただきたいと思います。
 三つあります。一つは、日本人の法意識というか、法に対する認識の問題です。一般的に日本人はどのように法をとらえているのだろうかと。どうも法というものを考えたときに、一度作ったらなかなか変わらない、改めないということが、どうも日本における風土になっています。
 今となると、明治憲法、これは万古不磨の大典と言われ、戦後まで一度も改正なしです。今の日本国憲法もそうです。しかし、時代は進むし、歴史はどんどん動いていきますから、 なんとかしなくてはならない。そこで行われる事はひとつの条文の拡張解釈。それから三百代言的論理解釈がおこなわれる。戦前の有名な話に、統帥権の独立という問題があります。憲法には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書いてありますが、これは陸海軍のことは責任内閣制の外だということではなかったはずなのに統帥権は独立だとして軍部の勝手な行動を許す事になりました。現行憲法9条もしかり。
 あれをまともに読んでみて、世界でも上位の装備を持つ自衛隊、あるいは防衛省の存在が認められるなどと自然に解釈できる人はまずいないでしょう。これがいちばん危険なことです、法というものは時代とともに変わっていくものであり、また変えていかなくてはならないのだということをはっきり認識する必要があるわけです。しかし難しいのはただ時代の移り変わりに乗って変えていけばよいのかというと、そうはいかない。法はもう一つの重要な役割として安定性も求められるのであり、いわゆる朝令暮改では法は信頼を失ってしまう。この即応性と安定性のバランスをどうとっていくかが最も難しいところです。
 そのことを踏まえても戦後のわが国の法律はあまりにも変えなさ過ぎる。その原因の一つは55年体制の、いわば万年与党と万年野党の存在だろうと思います。皆さんも時にはテレビの国会中継というのを見られる事があると思いますが国会の議論というのは、一つ法案を出すと、周辺にある問題ばかり議論して、法案の条文そのものはほとんど議論していない感じがしませんか?例えば京都議定書の批准が国会に出されたときなど議定書の中身はほんの僅かな時間しか議論していないのです。あとは何をやっていたかといえば、あれがけしからん、これがけしからん、政府は何をしているかと、こういう話なのです。たった20 分で重要な議定の批准が国会を通ってしまいました。
 では、こういう事態は立法府だけの責任かというとそうでもなく、原子力の例では我々事業に携わっている者の側も、何か原子力の法律の改正を国会に出すと、この問題ではなくて、それに付随するいろいろな厄介なこと、地域の問題やあまり意味の無い安全性のこととかいろいろ話が出てきて国会に呼ばれたりするので、なるべく法改正というのはやってくれるなという事があるというのを、以前に原子力局長をやっておられたかたから聞いたことがあります。
 したがいまして、立法、行政ばかりではなく、事業者のほうもなるべくそういうことに関わらないようにしている。それが、実は法というものをゆがめていく、ひずみを起こす最大の原因なのだろうと思っています。このようなわが国社会の悪癖をなんとか是正して、法というものはやたらに変えてはならないが、必要に応じて変えることを躊躇してはならないということをしっかりと肝に銘じなくてはなりません。確かに法改正というのは大変な労力とコストを伴うものですがそれを恐れていたのではまともな社会にはなりません。
 2番めに、行政法というものを一体どのようにみんな考えているのだろうかという問題があります。行政というものを一般的に考えますときにどうも、昔からあることわざで行きますと、「泣く子と地頭には勝てない」という言葉があります。行政の悪口を言うわけではありませんし、今の役所の方がたを地頭だとは思っていませんが、そういうことわざが昔からありますし今でも使われています。「お上」という言葉が戦前からあって、よく我々は小さいころに、子どもがあまり言うことを聴かないと、お母さんが「お巡りさんを呼びますよ」と言っていたの思い出します。今は、ちょっと聞くと違和感がありますが、警察や行政というものに対する日本人の感覚というのは、そういうことがあるわけです。
 では、行政法の本質は何かと。ここが分かっていないと、実は我々が考えなければならない原子力の法規制の問題もすっきりしないので回り道のようですがこの話を少しします。
 憲法に、国会は最高機関だと書いてある。行政があって司法がある。その三権がお互いに牽制し合って、そして近代民主主義国家の統治構造ができ上がっている。これを三権分立といいます。というと“そんなことはわかっている”といわれるでしょう。ところが、これがどの程度現実の問題に即して認識されているかというと、どうも甚だ心もとない。行政の基本原理というのは、要するに日本が法治国家だということが原点です。行政のすべての行為は法律に基づいて行われるべきものです。近代国家というのは、ご承知のように18 世紀の絶対王制が市民革命によって崩れて、国民議会というものが成立し、そこに国民が受託して法律を作らせ秩序を維持する。したがって行政には、必要に応じて権限をあたえて仕切ってもらうけれども、それはあくまでも議会の作った法律によってやってもらうのであって、立法は行政に対してやるべきことをきちんと指示するというのが基本的な構造です。
 ここに『法律学辞典』があります。そこに行政法の定義というか解説があるので、それをちょっと読んでみます。「行政法とは、行政権の組織および作用に関する法律。このような法は、近代の法治国の地盤の上に生まれた。すなわち、そこでは行政権の恣意を防止するため、権力分立を前提とし、立法権の定立する法律に従って行政を行わしめることによって、近代行政法の基礎権利である『法律による行政』の原理が確立した」。そして、「行政権の発動を人民に対する関係において拘束し」と書いてある。「行政を拘束し、人民を行政権の恣意から保護することを目的とする行政法の観念が生じた」と書いてあります。
 しかし、なぜ行政法というと、逆にわれわれが拘束されている、規制されているという感覚持つのかというと、どうもすぐになんとか取締法を思い出すからではないか。いちばん身近なところで道路交通取締法というものがあります。スピード違反をすると、罰金を取られたり免停になったりしますね。あれが典型的な行政法とみるわけです。しかし、この法律は時速80km の制限のときは、70km でつかまえてはいけませんよといっていると思ってください。よく途上国などへ行くと、お巡りさんが小遣い稼ぎのためにつかまえるようなことがありますが、そういうことはさせないという意味です。また許可の必要なものについては、法律に書いてある一定の要件を備えて申請されたときは、行政は許可しなければいけないのです。「ちょっと忙しいから」とか「おまえの言い方がきにくわないから」とかでことわることはできないのです。原子力関係の許認可でいえば「いま安全審査会がいっぱいだから、おまえちょっと届け出を待て」などと、そんなことは許されないはずですが、過去にはそういうことも経験しています。
 断っておきますが、今日は行政の悪口を言うためにここに上がったのではなくて(笑)、あちらもこちらもみんなやりますので、そのつもりでお聞きいただければ。今言った感覚、これをしっかりと皆さんの頭に入れておくことが2番めに必要なことです。
 3番めには、したがって、立法府は本来行政に対して、行政の発動をさせる内容とその範囲を明示しなければいけない。しかし、近代国家というのは、極めて複雑な問題を沢山抱え込んでおり、とてもひとつひとつの事柄について国会が行政に対して法律を通じてその中身を指示する事は難しくなっています。何も科学技術にかんすることするばかりではなくて、例えば産業経済にかんするいろいろな取引に関しても、金融関係の約款の問題とか、そういったところでも中身をひとつ一つ吟味していく余裕も知識も不足しており国会だけで処理するのは殆ど不可能です。そこでどうしても基本的なことは法律で決めるがあとの細かいところは行政に任せざるをえないわけです。したがって、行政に相当広い範囲の事を委任することはもう不可避になります。
 しかしそのためには行政は本当の意味での能力を伴った専門家集団でなければなりません。それが前提です。さらに行政は能力だけではなくて要員も確保しなければなりません。
 わが国で安全規制に関する組織体制が議論されるときには必ずと言っていいほどアメリカのNRCという原子力規制委員会のようなものを作るべきだという意見がでます。しかしあそこに何人の人が働いているかというと、3000~4000 人ぐらいです。もっとも全部が安全審査をしているわけではなくて、独立行政委員会というのは、準司法的・準立法的な機能を持っていますから、そういう仕事をしている人を含めての話ですが、それにしても日本とは比べ物にならないほどの人数にひとが働いています。またその技術的能力のバックアップは10箇所の国立の研究機関によって確保されています。
 例えば金融もそうです。バブル崩壊以後不良債権の処理から金融機関に対する検査が厳しくなり要員も増えてきました。しかし、それでも1000 人とかそんな程度でしょう。アメリカのSECは3万人いるのです。カラスが鳴かない日はあっても、銀行にSECの役人が入っていないことはないといわれています。そのぐらい行政というのは責任を持って仕事をやるように、要員と能力を持った者を備えておくのです。
 まして科学技術の法律の分野においては、行政に委任せざるを得ない事柄が増えてくるのは必然的であり、行政改革とか何とか言っているけれども、例えば規制緩和によって人員を減らさなければならない分野と逆に最近の社会情勢の反映として増やさなければならない箇所とが有るはずでその仕分けがきちんとできていないところにわが国ではおおきな問題があります。そういうことをしっかりとやるのが行政改革であるはずです。
 そこで立法府が行政に仕事を任せれば任せるほど、次にはどうやって先ほど指摘した様な問題、すなわち行政の恣意的行動を抑制するのか?、ということになります。今のわが国の体制ではその場合の最後の砦は何かというと、司法しかないのです。そこまでに中途がないものですから、なんでも行政行為のチェックが司法審査に直行してしまう。司法にとってみれば、そのような議論の好きな裁判官もいることはいるのでしょうが、一般的には迷惑な話でして、もう少し判断がやり易いようにしてくれないと、初歩的物理学の教科書的知識から高度な工学の理論まで勉強してから行政行為の可否を検討しなければならないのでは、本音を言えば、裁判官にとっては大変な負担な筈です。
 しかし、現行の原子力規正法はとにもかくにも実体法、つまり法律の中身でもって行政の行為の正否を判断することを裁判所に命じているわけですから、裁判所はいやが応でも、提訴を受けた以上はその中身を審査せざるをえない。後ほど申しますが、それではほかの国でもみんなそれで困っているのか、というとかならずしもそうではなくて、近代国家における輻輳する高度な科学技術、あるいは産業経済社会の複雑な構造の中で、行政権の発動を抑制する方式として、後でもう一度お話ししますが、実体法の中身、つまり法律の条文によって規制する方式と、もう一つ、中身は行政の専門性に任せるが手続きをチェックするという方式、つまり行政処分なり行政行為がおこなわれた手続き過程をしっかりと審査するというやり方があります。
 これはアメリカが典型的な例です。なぜアメリカはそれでそのような方法がとられているかというと、アメリカという国はご承知のように若い国です。近代的な高度産業経済社会が相当に進んできてから国家ができ上がってきた国ですから、先ほどのような問題をある程度出現してきてからそれに適合するように法制度を整えて行くことが可能であったことによります。したがって連邦憲法の「法の適正手続き」による行政手続法というものをしっかりと持っている。日本にも行政手続法というのは有りますが、このような視点から出来たものとはいえないのでその意味ではないのと同じに考えていただいたほうがいいと思います。
 もう半分時間が経ってしまったので困るのですが、そこで、後でもうもう一度もんじゅの話を一寸しますが、ついでに言いますと司法が行政の行為の正否を判断する際に、従来は二つのやりかたがありました。一つは、行政のやったことを横において、司法が全く独自で自分の判断を下すという方式です。もう一つは、行政お任せ方式です。これは、法律が行政に委任する範囲が非常に広くて、極めて自然に行政がやってしかるべきものだという案件については、行政権の発動が濫用になっていないかどうかというところだけを見る方式です。
 しかし、行政のやったことを全部見直して自分でやる方式と、全部お任せするという二つでは、今の近代国家の複雑な事案を裁くのはそう簡単ではないわけで、だんだん行政法の解釈として、あるいは学説としても出てきたのは、要するに司法は行政の判断過程を審査する、行政がどうしてそういう行政処分をやったか、という判断の過程を見る。ないしは手続き的実態の審査。手続きをどのようにやったかというプロセスの実態を審査する。そういう方向にだんだんなって来ています。その意味で、後で述べますように、伊方の最高裁の判決は非常にりっぱな判決で、この第3の方向を示唆していると私は思っているわけです。
 以上三つのこと、まず日本では法律は変わらない。それから行政法に対する考え方の基本を理解する。最後の一つは、立法府が行政に委任することが多くなることはやむを得ないとして、どうやって行政権の恣意的な発動を抑制すればよいのか、ということを考えていかなくてはならないのではないか?この三つの基本的な問題があるわけです。このことを念頭に置いてこれからの原子力法の問題を考えていっていただければ、それでもう今日の話は終わってしまってもいいのです。しかし、そうは言っても少しは中身に入らなければいけないだろうと思いますので、もう少しお話を続けます。
 レジュメに2から6まで項目が書いてありますが、その前に、またまたその前に原子力と法の問題を考えるのは、そもそも科学技術と法のあり方を考えるのと同じことだということを申し上げておきたいと思います。その上で特に原子力法を考えるうえで基本になることして、法に影響をあたえている三つの原子力の特質のことを書いて置きました。
 一つは、軍事利用と平和利用の相互関係です。今、国民は北朝鮮、イラン問題などで大分この問題を身近に感じているけれども、原子力発電というのは実質的にも歴史的にも軍事技術の平和目的への転換であるということは始から明らかなことです。日本における原子力の利用開発は、原子力基本法に「平和目的に限る」と書くことによって始ったのですが、それだけ書いたらみんな満足して、何か平和と軍事の間にはっきりとした線引きができるような感覚が生まれ、それを前提にして利用開発をスタートしてしまった、そうは思っていなくても、そのように言わないと原子力をやらせてもらえないからということでそう言っているうちに、なんとなく皆その気になって、軍事利用のことは考えない事にして半世紀の間主として原子力発電開発に専心してきました。それはそれでいいのですがそのために国際的な視点から原子力全体の動きを常に的確に判断する目を失ってしまったように思います。この事も現行の原子力法を考える上で重要な問題点であるわけです。
 その流れがずっとありまして、もちろん核燃料サイクルはわが国としてはやらざるをえないのでしょうが、なぜ非核兵器国で日本だけが濃縮、再処理を含めて核燃料サイクル施設が持っていられるのか、それは非常に不思議なというか例外的なことだという感覚がどうも失われてしまっている。
 自分だけで「平和目的だけに利用します。ほかのことには利用しません」と法律に書けば、それで外国もみんな「ふん、そうか。それならよろしい」と言ってくれるというように錯覚しているようです。
 そう言うと、「何だ、そんなこと大したことではない」とお思いになるかもしれませんが、これは非常に重要なことで、本当に基本法を作るときに絶対に軍事利用を拒否するのであれば、今から考えて後知恵になるかもしれませんが、あれは「核兵器を持たない」とはっきり書くべきだったのでしょう。
 これは全くの余談になってしまって申し訳ありませんが、戦前の法律というのは、官報で出るときは漢字と片仮名で公布しました。そして、句読点と濁点は法律の中身にならなかった。お配りした資料に基本法をつけてありますが、それをごらんになると第二条に「原子力の研究、開発及び利用は、平和目的に限り、」民主、自主、公開、と書いてある。りこの「限り、」の後に点があるのです。点がないと、これはどう読めますか。平和目的に限っては民主、自主、公開でやります。軍事目的、あるいは核兵器に関して何も言っていないと読めませんか?ざれ言のように聞こえますが、日本語の語感としても、「平和目的に限る」で切るのと、「限り」であとに続くのとではニュアンスが違いませんか?日本の法律に拡張解釈を許す原因のひとつに日本語という問題が大きいのではないかと私は常々思っています。
 徒し事はさておいて、諸外国からなにかにつけて過去にいわれたことは、日本は核兵器を持つのではないか?あるいは核武装をするのではないか?という質問ですが、それに対するお決まりの答えは、それはありえない,何故なら憲法9条があって、原子力基本法には平和利用に限る、と書いてあり、しかも非核三原則があるから。しかしこれは外国の人を説得するのに何の足しにもならないのです。法律というのは絶対のものではなく常に変わるものだと思っていますから。政策はもちろんです。そんなものが担保になると思っている国はないのです。今、日本が主張すべきは非核が日本の国益だということであって、わが国のエネルギー、食糧を含む経済の現状、日本を取り巻く地政学的、外交的環境を含む国際情勢全般から説明すれば、話は30 分でけりがつくのではないでしょうか?
 2番目が、「潜在的リスク」の問題です。これは原子力開発の当初から意識的に避けてきた 問題です。一つの例を挙げると、原子力損害賠償法を制定するときに我妻栄という有名な日本の法律の第一人者を部会長とする原子力委員会の専門部会ができました。その審議のなかである時、我妻先生が、委員だった電気事業者の人に「原子炉というのはどの程度の危険性があるものですか?」と聞かれました。その電気事業者の委員さんは「いや原子炉は絶対に安全で事故は起こしません。関東大震災の3倍の地震にも耐えます」。先生はにやにやと笑って、「それなら原子力損害賠償法は要らないではないですか」ということを言われたのです。
 つまり、絶対安全というのは、言葉だけではなくて、当事者の意識の中に、なにか物事を始めるときリスクそれに伴うリスクというものを必ず考えるという感覚を日本人はあまり持っていない。
 しかもそれは何も体制側だけではなく、一般の国民のほうにもそうゆう発想がないのではないかと思うわけです。太平洋戦争の時でも「もし負けたらどうなるのか」を考えた議論をしたことがなかった、というのは有名な話です。地元との話し合いでも「事故は絶対にないですね」と聞かれるので「絶対ありません」と答える。「絶対にないですね」と聞くほうが無理なのですがそういえないところがつらい。(笑い)。飛行機に乗るときに航空会社のカウンターに行って、「このフライトは絶対に落ちませんね」と聞いたら、カウンターの人は何と答えたらいいのでしょうか?「絶対に落ちません」と言ったら、 そんな会社の飛行機には乗ってはいけないのです。「落ちないように一生懸命努力しています」というのが正しい答えでしょう。しかしそれではみんな満足してくれない。しかしそこのところを克服していかないとどんな法律を作ってもだめです。原子力法に求めてられてい
ることはそういうことなのです。したがって、安全基準の問題でもリスクという考え方が理解されない事にはどうにもなりません。この辺りが、実は先ほど班目先生がおっしゃった、工学から法を見たときにどういう問題があるのだろうかということでの一つの 焦点になることではないか、と思います。
 話を先ほどの原子力損害賠償法に戻すと、その成立の経緯がアメリカ、ヨーロッパと日本では全く違います。アメリカでは開発の当初に原子力法を改正して民間産業に対して政府が参加を求めた時に、産業は二つの条件をつけました。一つは、「発電炉の研究開発は全部国がやること」。もう一つは、「万一の事故があったときに企業がつぶれないような制度を作ること」。これがプライス・アンダーソン法という原子力損害賠償法のもとなのです。ヨーロッパは、1957 年にローマ条約ができたときに、原子力というのは事故が起これば、必ず越境損害を起こす可能性があるから、何らかの条約を作ることにしよう、と決めました。
 つまり欧米では原子力の潜在的リスクを前提にしてこれに対する対策をたててから開発を始めました。しかし日本はご承知のようにこの点に関する何の準備もなしに開発を進めていきました。それでもなぜ原子力損害賠償法ができたかというと、詳細は省きますが、まず英米側の要求によって日英協定、日米協定に免責条項というものが入れられた。さらに、損害賠償法がないと原子炉は売りませんよという外国のメーカーの圧力があったからです。原子力産業も電気事業者も「原子力発電には潜在的リスクは避けられないのだから、損害賠償制度なしにはやりません」などと言った人は残念ながらいませんでした。
 そもそも原子力基本法の2条に、「安全の確保を旨として」と書いてありますが、最初からあったかというと、そうではないのです。昭和30 年に法律ができたときは、この文言はなかった。53 年の改正で初めてこの「安全の確保を旨とし」と入ったのです。その間に原子力の分野で何が起こったかというと、カナダのNRX という研究炉や、イギリスのウィンズケールでも事故があったのです。
 それでも安全確保というのは、基本法の当初は書いてありませんでした。それほど安全ということに信頼を置いていたというと格好がいいにですが、リスクという認識に乏しかったといってよいでしょう。このことが原子力法に与えた影響をよく考える必要があります。
 今日は専ら施設の安全性についての潜在的リスクの話ばかりしていますが、もうひとつ同じように重要な問題は核拡散のリスクです。しかもこの双方ともリスクの源になっているのは核物質です。
 したがって本来の原子力規制はアメリカの原子力法を読めば解るようにこれの規制が中心になるべきです。時間の関係でここではその指摘だけに留めて置きます。また法に影響を与えた三番目の特質である巨大技術の話も日本では原子力の利用開発全体の見通しも国の開発組織の改廃もその視点を全く欠いて行なわれたという事の指摘だけにして置きます。
 さて個別の問題として先ず「基本法と規制法」という話をします。原子力基本法というと原子力関係者にとっては金科玉条のような重みをもっている感じですが、これがまた問題の法律で、先ほどの災害防止の文言の入れた以外に実質的改定は全くおこなわれておらず、変わったのは組織法の部分だけなのです。原子力委員会と安全委員会を分けるとか、あるいは原研と今の開発機構ができるまでの変更です。
 そもそも基本法という法律がやたらあるのは、実は日本だけの特徴なのです。この基本法というものが幾つあるかこの間一寸数えてみたら、教育基本法というものはご存じでしょうが、そのほかに食育基本法、環境基本法、がん対策基本法、中小企業基本法、消費者基本法、などなどざっと20以上あるのです。なぜこんな法律が日本に沢山あるのだろうかと改めて考えて見たのですが、私なりの解釈をご披露しておきます。積極的な意味に考えますと、議会がある法律を作ろうとした時に基本的理念や指導方針というものを示すために先ず基本法というものを作って、これに従って後の細かい法律を作りなさいよということだと言えます。したがって、法体系上の位置づけとしては、憲法があって、法律があって、政令がある、その憲法と個別法律の間に基本法というものが入っているということでしょう。
 しかしそれだけの理由だったら何処の国にでもありそうなことですが、何故日本国だけの特徴かというと、どうもあまり大きな声ではいえないかもしれませんが、立法府の役割というのは、本当は法律を全て自分で作るのが原則であり、議員立法が本旨な筈です。ところが、ご承知のように議員立法は、日本では寥々たるもので、殆どの法律は行政府が出します。しかしこの基本法というのは必ず議員立法なのです。したがって、国会議員さんが、今日は国会議員さんはいないからここでいちばん悪口を言いやすいのですが(笑)、なんでも行政ばかりにやらせていては沽券にかかわるから、ひとつ立法府の意気込みを示してみようということではないのかと思ってしまいます。しかし基本法で理念とか指導方針を示してしまうとそれで安心してしまって、あとはもう行政にお任せということになる。こうなるとまさに日本的特徴です。しかし、基本法があとに続く法律に対する理念とか指導方針を示すというのであれば、次の段階の法律は基本法の趣旨に従ったものでなくてはいけないはずです。資料に基本法をお付けしておきましたので一寸ごらんいただきたい。
 わが社には上級管理職の学校がありますが、「基本法を読んだか」と言うと、殆ど全員が読んでいないのです。そう言っては悪いのですが、皆様でも一体どのくらいの方がたが基本法そのものを読んだかたがあるのか、ちょっと疑問です。それで、例えばこれを見ますと、10 条に「核原料物質の管理」とあり、12 条に「核燃料物質に関する規制」とあります。これをお読みになると、今の規制法とは考え方がまるで違うことがお解かりになると思います。ここで基本法が明示している理念なり指導方針というのは、物質規制であり、施設規制だと思われませんか?事業を規制しようなどと、どこにもないのです。12 条をごらんになると、「核燃料物質を生産し、輸入し、輸出し、所有し、所持し、譲渡し、譲り受け、使用し、又は輸送しようとする者は、別に法律で定めるところにより政府の行う規制に従わなければならない。」と書いてある。なにも付け加える必要の無いほどはっきりしていると思いませんか?
 したがって、基本法が指導理念や行政に対する指導方針を示すものだと定義してみれば、まず今の規制法というのは基本法の理念や方針とは違っているとしか考えられないのです。それはきつすぎるとおっしゃるかもしれないけれども、本当に基本法というものの存在意義を先ほどのように積極的な意味に解するのならば、もう一度基本法に立ち返って、我々は現行規制法の規制の仕方を考えてみなければいけないのではないか?、細かいことは別としまして、基本法と規制法の関係というのは、ここのところを出発点として考えていっていただきたいのです。
 ついでに申しますと、14条の「原子炉の建設等の規制」というところにごく短い条文で 原子炉を「建設」以外にも「改造し、又は移動しようとする者は」と書いてありますが、原子炉を移動するということはなかなか難しいことですね。また、何でも「別に法律で定める」と書くのはいいのですが、例えば特許発明等に関するものは「別に法律で定める」としてあっても、その法律は作ったことがないし、それから「奨励金又は賞金を交付する」というのもこれで予算を組んだことがない。すでに死んでいる条文が幾つかある。もっと重要な事は先ほどのように基本法と趣旨の違っていることがある。それが何故問題かというと、法を尊重する、あるいは遵法の精神を非常に阻害することになるということなのです。大げさに聞こえるかもしれませんが法律というものの価値を著しく損なう事になるのではないかと心配するわけです。
 アメリカの原子力法1条を読むと、原子力は未知の分野が多いから、当然これは必ず将来見直していかなければならないということが先ず書いてあります。日本の基本法があの当時に示すべきはその点だったのではなかったでしょうか?初めはいろいろ解らない事だらけであったことは責めるわけにはいきません。そうであればあるほど「今一応決めておくけれども、これはもう必ず事態の進展とともに変わるから、そのつど見直してやりましょう」ということこそが方針として書かれていなければおかしいのであって、そういう意味でも、現行の原子力法の体系を根本的に考えてみる必要があるという皆さんの問題意識は 正しいと思います。
 規制法の仕組みについてはまた後でご説明があるでしょうし、今日は欠席だそうですが、田邉君の力作がいろいろあるので、資料としてつけておきましたが、とてもこの内容に入っている時間がないので省略します。この表で縦割り事業法体系がはっきりしています。ひとことふたこと言わしてもらうと夫々事業の許可の要件が示されていますが、ごらんになって解るようにばらばらです。
 中でも問題なのは、濃縮が成型加工の事業許可に入っているので平和利用の担保が要件になっていないことです。以前はこれは禁句だったのですが今は公然の秘密なのでしゃべっているのですが、濃縮がスタートするときに、たしか原子力法制に関する原子力局長の私的懇談会的な委員会ができて、私もメンバーだったのですが、規制法上どう扱うか議論をしました。私は当然新しく濃縮の事業を起こしてやるべきだと主張しましたし、それが多数説でした。しかし結局「濃縮」という問題を国会に出したら、それこそはちの巣をつついたように、軍事利用の準備をするのではないかなどいろいろ厄介な議論が起こるおそれがあるから、絶対にやりたくないということになって、―それは行政ばかりではなくて、事業者側のほうも-、先ほどの話のように寝た子を起こすなということで加工で読むことにしてしまいました。このようなことでは一体日本はイランの問題にけちをつける資格があるのかな?という気がしませんか?。今更そんなことを言っていても仕方がないのですが、ともかくもう一度全体を見直したほうがいいというのは明らかだろうと思います。
 その「規制法の仕組み」の中に、「事業規制」という項目があります。この規制の仕方によって起こっているいろいろな問題にも触れる時間がないので、これは田邉君の話に任せますが、原子力の規制を「事業」でやっているのは日本だけで、他の国はすべて「物質」と施設」だということをご記憶願っておきます。その理由については一寸簡単にはご説明できませんが、わが国の伝統的縦割り行政の帰結であることは否定すべくもありません。そのほかに、そこに「入口規制、二重、間接」と書いてありますが、そのうちの入口規制という問題にちょっと触れたいと思います。
 日本は、設置許可、工事施工方法の認可、使用前検査があって、それで運転に入ってしまいます。
 建設の入り口が一番大事と説明されています。アメリカは、建設認可があり、建設中にいろいろな検査がありますが、最後は運転許可で押さえます。つまり、日本とは逆に出口規制なのです。なぜ日本は入口規制かというと、簡単にいうと自主開発ではないからです。導入ベース技術でやるわけですから入口で押さえることに意味はあるしまたそれが可能なわけです。原子力船「むつ」の事件のときに、設置許可の意味を問われて政府は、設置許可というのは安全の全部をチェックするものであって怪しいものは通さない、全部水際で押さえてしまう法律になっていると答えています。しかし入口規制が可能なのは、導入ベースだからであって、自主技術開発をやろうとしたらすべてについて解っていなければだめなら絶対に開発などは進みません。そこはもう初めから違っているわけです。
 今、アメリカは建設と運転が一本の規制になったと言っていますが、これはオペレーション・ライセンスで一本になっていて、そして出口規制のはずです。中途のところでは、いろいろな過程があるでしょうから、それを組み入れて、最後に運転するときにいちばん厳しい審査を受けるというのが、これが本来の原子力施設の許認可のありかたでしょう。しかもこれは軽水炉のように技術の確立したものに対してやれることです。またその前提として原子炉の「型式承認」があり「早期敷地認可」があります。
 ところでこれも余談になりますが、日本では入口重視は原子力だけの特徴かというと、どうもそうではないらしい。そもそも明治維新以来の文明開化の流れではないかと思います。つまり、外国の文明を早急に取り入れて吸収して、日本近代国家を立ち上げてきました。また、例えば戦後の原子力発電導入の先駆になったのは新鋭火力ですが、この新鋭火力のサクセス・ストーリー、1号輸入、2号国産の手法が見事に日本の電気事業の電力供給力増強によって産業の復興を支えました。
 そのサクセス・ストーリーが原子力にそのまま持ち込むことが可能だと信じたわけです。そういうふうに考えますと、ある意味では、入口重視というのは日本文化の歴史、風土の段階まで達しているという感じがします。これも冗談話のように聞こえますが、学校制度を見てください。大学などは入学試験はやたらめったら難しいけれども、卒業は寝ていてもできる(笑)。アメリカは全く逆です。また、同じようなことが、ほかにもいろいろあります。日本は上水道は発達しているけれども、下水道は発達していない国です。「レ・ミゼラブル」「第三の男」などをごらんになると、ウィーンやパリの下水道を犯人が逃げるわけですが、あの下水道のりっぱなこと。欧米は下流から行った。
 日本は、上水道はいいのですが、23 区内でも本当に下水が完備したのはごく最近のことです。ともかく入口重要視というのは容易に直らないのではないでしょうか?これから日本も高速実証炉の自主開発をやるなら入口規制ではだめです。逆にすでに技術の成熟した軽水炉では運転許可一本のやりかたを考えてよいと思います。
 もう時間が来てしまってどうしようもないのですが、「二重」というのは電気事業法と原子炉等規制法の規制対象に重なりがあって現場では厄介なことがありますが、どちらかによせてしまうことは無理でしょう。「間接」というのは、施設の安全防護のやり方が保安規定を事業者に作らせて、それを認可して、それに合っているかどうかをチェックするのが現行の保安体制であるということをいっています。これはまた外国と違うところです。これは、法規制の問題もありますが、やはり行政が事業者よりもメーカーよりも、技術についていちばん専門的知識を持っているということが前提にならないと、外国のような方式にはなれないのです。それからそれに対応できるほどの要員の数が確保できないとすれば、現在のよう保安規定を基にして管理、監督をしていくという方式も一つの知恵であることは確かでしょう。しかし本来は、先ほどから繰り返し申すように、行政に規制を任せるなら、その行政がまず技術的能力と必要な要員を確保すべきです。ところが、日本では原子力開発の歴史が違います。アメリカは国から始まってだんだん民間へ行きますが、日本は民間が先ず技術導入をしてそれをだんだん国が規制をせざるをえなくなるという、全く逆方向に行きましたから、それはいたしかたがないことでした。しかし最近はようやく少し づつ行政側の体制が整ってきました。これは非常にいいことなので、ぜひこれを拡充していって欲しいと思います。それとこのやり方が国民の原子力施設の安全規制に関わるクレディビリティの観点からみても、これでよいのかどうかを論議していただきたい。
この辺からはしょらないと、もうあとまで行きませんのが「規制の組織」。これは長年の間開発推進と規制を分けるべきか否かという議論があります。かつて有沢行政懇というのがつくられて二年越しで議論がおこなわれましたが、結局は原子力局を安全局の二つに、原子力委員会を安全委員会の二つに分けて終わりになりました。機能分離論の中で、先に申し上げたように行政委員会の本質なりNRCのようなアメリカの独立規制委員会の役割というものが日本では理解されていないことによって混乱が起きています。そのような組織は公正取引委員会ぐらいしかないですから。ここでは行政処分の正否に関する一審は公取による審判で産業経済問題の専門家がやります。二審から高等裁判所になります。アメリカのNRCでは一審は技術一人、法律一人、そしてもう一人、裁判長になるのが技術。この三人で審査して一審は終わり。二審の控訴裁判所は主として手続き過程を審査する、そういう形になっているわけです。これは何も原子力規制だけの特徴だけではなく、航空も海運もそうです。昨日か一昨日か、日本で乱気流で乗客や乗務員が怪我をした裁判で機長が無罪になりましたが、ああいうケースも裁判所だけにやれ、といわれてもなかなか大変で、アメリカでは輸送関係は全部独立規制委員会です。そういう地盤がないと、原子力だけ行政委員会方式でやれといってもなかなか難しい事です。他方今のダブルチェックというのは建前は結構ですが本当に実質的にあるいは行政コスト的にこれが最善の方法なのか、も十分検討に値するテーマだと思います。
「原賠法の悩み」というのは二つあります。一つは規制法の事業規制とリンクしていることによる問題です。原賠法の第5条に損害賠償措置をしなければ事業を開始してはいけないというのですが、事業開始というのはどの時点なのか。会社を作ったときが事業開始だったら、賠償措置をしていないで事業をしている会社があってはいけないわけですが、かつて原燃サービスも、原燃産業も、青森で立地をはじめたときには何も許可を受けていなかったことが問題となった事があります。設備の建設をやる段階になって初めて賠償措置が必要となるのであって、二つの法律の要請にギャップがある。これも事業規制方式の副産物といえます。この度、廃棄の業に高レベル廃棄を入れるという段になって問題になったのは、法制局が今事業の許可を与えるなら、損害賠償措置を幾らつけるのか言えといってきたのですが、これは無理です。しかし法律の建前から言えばそうせざるを得ないわけで、こうした点からも事業規制というやり方に無理のあることがわかります。事業の許可と損害賠償措置がくっついてしまっているということから来る別の問題としては、JCOの事故のあとで事業許可を取り消しましたが、取り消された会社は何もやることがないのだから、あの会社が破産してなくなってしまっても誰も文句は言えないはずです。その後に何か人身、財産の損害が起こっても訴える相手がいなくなってしまいます。専門的には勿論一般民法で出来ないこともありませんが容易ではありません。こんなところにも事業規制方式にかかわる厄介な問題があります。
最後に時間が有りませんがどうしてもお話をしておきたいのは「原子力訴訟」の問題です。先ほど申し上げた「もんじゅ訴訟」の経緯を見てみたいと思います。そこに資料として最後のほうにつけておきましたが、これは「読売新聞」が判決の内容を簡略化して表にしています。こういう簡略化の危険なことは、これだけ見て裁判の複雑な中身を外部から議論してしまうことですが、便宜的に利用させてもらうことを勘弁してください。この左側に書かれているのが有名な控訴審の判決でこれを見てみますと、「ナトリウム漏れ事故対策」の左側のところに、「安全審査に過誤、欠落があった」と書いてあるのです。それから「蒸気発生器事故」は「審査の対象となっていない」と。
さらに「炉心崩壊事故」については、「国は、申請を無批判に受け入れた疑いがある」。となっています。この判決について殆ど全ての批判は技術的判断の正否でしたが私があの判決を読んだときに一番危険を感じたのは実はこの表に書かれているポイントです。これが伊方最高裁の判決をしっかりと踏まえたものであったら、あるいは最終審でも負けるかもしれない、と思いました。しかし幸いなことに、高裁の裁判官は、前にお話した司法判断のやりかたの内自ら独自の判断を下す方式を採ってしまった。技術のことを一生懸命勉強していたら、それに酔ってし、「おれはすげえ勉強したんだ。これで判決を書かなきゃもったいない」という感じで書いてしまったようにみえます。助かったというか惜しいことをしたというか、(笑い)。伊方最高裁の判決が忠実に踏襲されたらどうなっていたか?背筋が寒くなりました。
この判決が出たとき原子力界の殆ど全ての批判は、司法が技術の判断をするのはおかしい、ということでした。しかし今まで幾つもの勝訴した判決でも裁判所は丁寧に技術的な判断をした上で当該原子力発電所は安全だという判定を下しています。技術判定が司法はできない、そんなのはけしからんということであれば、実は勝訴した裁判もみんな同じことなのです。勝てば官軍なのか。そちらの方は何も言わなくて、負けたときだけ裁判所はけしからん、法律屋の裁判官に技術が分るものか、というのは当を得た批判とは言えないのではないでしょうか?
 なぜ司法がそうしなければならなくなるかというと、もんじゅの高裁の裁判官の話は別としまして、いちばん最初に申し上げた、実体法が、規制法という法律が、裁判所にそういうことをやれとなっているのです。司法としてはほかに方法がないのです。だから、先ほど言ったように、濫用かどうかだけを見て、濫用がなければもう丸投げだということでいけるかというと、そんな裁判をした途端に、司法は今度は国民から批判されるわけです。「何だ。司法がとりでではないか。行政の行為を公正に判断するのは司法である。それが自分で役目を放棄しているではないか」と言われるに決まっています。だから、やらざるをえない。しかし、伊方の裁判で最高裁は何と言ったかといいますと、まず行政が調査審議に適用する具体的審査基準が不合理ではないかということ、そして次に、行政の調査審議あるいは判断の過程に看過し難い過誤、欠落がないことが許認可に違法性の無いことの要件である、それをよく審査しなさい、と判示しました。審査する基準と判断の過程のど
ちらかがだめだったり、両方ともだめだったときはアウトですよということを言っているのです。
 ここが一番の重要な点であるわけです。そういう意味で、我々が今後こうした科学技術裁判で考えていかなければならないのは、実体法の内容でなければ一体何によって行政行為の正否を判定するか、といえば伊方の判決の示した方向ではないのだろうか?いや、伊方はそこまでは言っていないということもいえますが、少なくとも方向としては、内容は行政の判断を尊重するとしても手続を十分に審査することによって抑制が可能ではないかというのは間違っていないと思います。手続きというと、単なるやり方の問題のように聞こえますが、例えば昔は原子力委員会のもとに安全審査会があった頃には、そう言っては悪いのですが、たった一人委員さんが出席しているだけでその審査会が成立していたのですが、アメリカだったら、それだけでもうその許可はだめです。実は、もんじゅの地裁での審議で、元の安全委員長の佐藤さんが証人に呼ばれたときに、裁判長に「安全審査委員会は議事録がありますか」と聞かれた時に「ない」と言われたそうです。 その話を聞いて、「いや、あるじゃないか」、何月何日、だれだれがどうしてというものがちゃんとある、議論した項目が書いてある、という反論がありましたが、それは佐藤さんの言われた事の方が正しいので、本当の議事録というのは、出席はこういうメンバーで、何が議論されて、その内容はこうこうで、その結果こういうことが決まったということが記録されてあるものが議事録です。今はちゃんと整備されているはずです。それがまさに手続きの過程の審査なのです。そのようにして行政の恣意的な行為を抑制していくというのが、 アメリカの行政手続法の基本になっているわけですが、日本にそれを今直ちに同じように導入しようというのは、難しい問題であることはわかります。しかし、そこまで問題を掘り下げていかないと、もんじゅ裁判の意味するもの、更には科学技術と法の根本にある問題は解決していかないのだろうと、私は思います。原子力裁判の個々の判決が出るたびに、一喜一憂して行政の悪口を言い、司法の悪口を言い、あるいは国会、さらに事業者の対応を非難するだけの話で終わってしまうのではなんの成果も進歩もない、難しいことは承知で将来のための道筋だけはしっかりと把握していただきたいと思います。もう終わりますが、今日はそのことだけをお話しできればと思っていたので、また自画自賛になって申しわけありませんが、30 年前に書いた本の「原子力法の課題」というもののコピーをつけておきました。私はアメリカのロースクールで勉強したものですから、ちょっとアメリカ法かぶれしている面がありますが、それは割引していただいて、何を30 年前にすでに問題にしておいたかということを感じ取っていただければ幸いです。
 なお、最近になってようやく皆さんこれに関心が増えまして、全文のご注文が多いのですが、この本には国土開発、宇宙、情報社会とかが入って、原子力が4分の1なので、別に原子力だけの抜き刷りを作ってありますので、ご要望があれば対応するにやぶさかではないので事務局のかたにご相談下さい。
 半世紀前に「Atoms for Peace」というアイゼンハワーの有名な演説があり、パトナム報告、ジュネーブ会議、原子力の未来はばら色でした。しかしその後今日まで、原子力に携わった我々の歴史は悪戦苦闘の連続です。そして今現実にわが国の電力の30-40パーセントは原子力によって供給されています。この半世紀の間、私は、いつも一体原子力というのは本当に人類の繁栄や幸福に役立つものかどうかと考え続け自問自答して半世紀を過ごしてきました。もう一つ、もしその答えがイエスだとしても、一体このやり方でいいのだろうかということが、絶えず私の頭を離れませんでした。それは何もただ原子力を批判するのではなく、格好をつけさせていただくと原子力に対する熱い想いがあったからでしょう。
 昔のばら色の原子力を思い出して、今少々気になることがあるのは、最近流行っている「原子力ルネサンス」という言葉です。ルネサンスというのは、日本では文芸復興として、ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ガレリオ、宗教改革などなど、中世暗黒時代から文明が復興したということへの賞賛と希望でとらえられています しかし、ルネサンスはどういう時代だったかというと、塩野七生さんの『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』に書かれているように、この時代イタリアは王公国の争いで戦争、略奪、不道徳による混乱の連続、しかも、隣国であったスペイン、フランス、ドイツに攻められてぐちゃぐちゃの時代でした。そういう時代に、文明文化が花を開くということは、なにを語っているのでしょうか?他方日本のその時代は戦国時代という側面ばかりが強調され、信長は楽市楽座を使って商売というものを商人の特権から解き放した。能を振興する。茶の湯、キリスト教の布教いわゆる文化が花開いた時代であるのにその印象は薄い。大河ドラマのせいだとはいいませんが、この東西の対照的な歴史認識はどこからきているのか?そこで、思うことは、ルネッサンスという言葉がばら色の未来を夢見て中世を暗黒時代として葬った愚を犯すことなく、20 世紀後半の原子力の歴史を振り返えり、その反省の上に立って21 世紀の原子力をどう進めるかを考えていくことが我々の責務だということです。その大きな課題の一つが原子力法制の見直しだはないでしょうか?
 よく申しますように、賢者は歴史から学び、愚者は自らの経験にのみ従うと。歴史から学ぶことは、何事につけても最も大切なことだと思います。20 世紀後半の原子力の悪戦苦闘の時代は、決して暗黒ではありません。その中から幾つかの芽生えがあります。行政と事業者の間にもいろいろ紛糾がありますが、基本的には悪い方向に行っているのではないと私は思っています。、行政法の基本を踏まえて、適当な緊張感を持って対峙することも必要であって、「泣く子と地頭」であってはいけないし、長いものには巻かれろではいけない。双方が自らの役割を踏まえつつ、互いに切磋琢磨して行くことが大切です。ただし原子力法を行政と事業者の問題だけに矮小化することは許されません。最大の課題はなんといっても現行の法制が著しく透明性を欠いている、そしてそのことによって行政も事業者も国民からのクレディビリティを失いかけているのではないか、ということです。
 そのことをしっかりと念頭において、法を考える場合に重要な基本的近代民主主義国家の統治構造に思いをいたしつつ、「原子力法工学」を進めていただければ、その成果は期して待つべきものだと思います。ご清聴ありがとうございました(拍手)。

(木村) 下山先生、ありがとうございました。原子力と文化から風土まですべて含めて、非常に含蓄のある、とても有難いご講演をいただいたと思います。時間が押しているのですが、せっかくの機会ですので、2件ぐらい質問を受け付けたいと思います。会場の皆さん、いかがでしょうか。
(下山) 後でパネルのときにまた。
(木村) では、そうしましょう。では、ひとたびここで下山先生のご講演は終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました(拍手)。

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2011-06-05 : ・法規制関係資料 : コメント : 0 : トラックバック : 0
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原子力損害賠償法について検討してみます。(リンクはご自由に)
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